観光を「国家資産」と呼び直す
日本観光振興協会(日観振)は2026年6月9日、第63回通常総会で、2040年を見据えた観光産業の中長期ビジョンを発表した。観光を「余暇・消費活動」から「価値を生む活動」、さらには国家資産へと再定義する内容だ。
観光関連企業・団体やDMO(観光地域づくり法人)、運輸・宿泊などの主要会員17社からなる検討会(座長=池上重輔・早稲田大学大学院教授)が、2025年6月から計7回の議論を重ねてまとめた。会長は菰田正信・三井不動産代表取締役会長が務めている。
ビジョンが前提に置くのは、2040年の厳しい人口構造だ。国立社会保障・人口問題研究所の推計をもとに、ビジョンは2040年に高齢者が人口の約35%を占め、生産年齢人口は2020年と比べておよそ1,300万人減ると見込む。地域によっては医療・交通・教育といった生活インフラの維持すら難しくなる、という想定だ。その局面で、観光を「日本が成長し続けるための数少ない産業」と位置づけ直したのが今回のビジョンである。
あわせて、若い世代へのメッセージ『2040年、日本の未来をつくるあなたへ「観光で生きる」という選択』も同時に策定した。観光を将来のキャリアの選択肢として捉えてもらう狙いがある。
ただ、数ある新しい言葉の奥にある本丸は、もっと地味で切実なところにある。観光が産業として「稼げて、賃金を払えるか」という一点だ。
ビジョンの本丸は「賃金が循環するか」
ビジョンには「価値密度」「価値観リーダー」といった新しい言葉が並ぶ。しかし、それらを支える土台は驚くほど率直な現状認識だ。ビジョン本文は観光の課題として「低付加価値構造による賃金水準の低迷」を挙げ、観光を「やりがいはあるが収入は低い」仕事だと正面から認めている。
これには数字の裏づけがある。厚生労働省の賃金構造基本統計調査(令和7年)では、一般労働者の所定内給与は全産業平均で月34万600円だった。
しかし観光の中核を担う宿泊業・飲食サービス業は月27万7,200円で、16ある産業大分類のなかで最も低い水準だ。最も高い電気・ガス・熱供給・水道業(44万4,000円)とは16万円以上の開きがある。
観光を「基幹産業」と呼ぶには、この賃金の現実を変えられるかどうかが避けて通れない。

この図表のデータを見る
| 産業(産業大分類) | 所定内給与額(万円) |
|---|---|
| 電気・ガス・水道 | 44.4 |
| 学術研究・専門技術 | 44.0 |
| 金融・保険 | 43.7 |
| 情報通信 | 40.6 |
| 鉱業・採石 | 38.8 |
| 教育・学習支援 | 37.9 |
| 建設 | 36.6 |
| 不動産・物品賃貸 | 36.0 |
| 卸売・小売 | 34.9 |
| 製造 | 33.0 |
| 複合サービス | 31.9 |
| 医療・福祉 | 31.6 |
| 運輸・郵便 | 31.3 |
| 生活関連・娯楽 | 29.5 |
| サービス業(他) | 28.5 |
| 宿泊・飲食サービス | 27.7 |
| 全産業平均 | 34.1 |
令和7年(2025)賃金構造基本統計調査(一般労働者・男女計)。千円単位を万円に換算(小数第2位を四捨五入)。
ビジョンが示す答えは、循環の設計だ。その地域ならではの体験に適正な価格を設定して収益を生み、その収益を賃金や教育、地域への再投資へと回す。
高まった価値がさらに適正価格を支える循環が回って初めて、観光は誇りを持って長く働ける産業に変わる。
ビジョンが「おわりに」で掲げる到達像も、低賃金構造から脱却し、世界的に人材を引きつける賃金とキャリアを備えた「高度人材産業」への進化だった。
政府計画の先を見据える
このビジョンは、政府の観光政策とどこが違うのか。政府は2026年3月27日に第5次観光立国推進基本計画を閣議決定し、2030年度までに訪日外国人6,000万人・消費額15兆円という目標を据え置いた(地方部のリピーターや延べ宿泊者数の新指標も加えている)。
あわせて読む 政府の観光政策の枠組みは、こちらで詳しく解説している。
観光立国推進基本計画とは?訪日6000万人・消費額15兆円に向けた国の観光戦略
期限は2030年、主役は来訪者数と消費額だ。これに対し日観振ビジョンは、その先の2040年を見据え、来訪者の数ではなく働く人の処遇とキャリアを主題に据えている。

つまり、政府が「どれだけ来てもらうか」を担い、日観振が「来た価値をどう働き手と地域に残すか」を補う構図だ。政府計画が数値目標を伴う政策計画であるのに対し、日観振ビジョンは業界団体としての中長期的な方向性を示す性格が強く、実装は地域・企業・現場に委ねられている。そこに、ビジョンの実効性が問われる余地も残る。
ビジョンが新たに足した概念
ビジョンが新たに持ち込んだ考え方も整理しておく。中心に据えられた新しい物差しが「価値密度」だ。
来訪者数を増やすか単価を上げるかという量と質の対立を超え、一人ひとりが地域にどれだけ深く関わり、長く滞在し、再訪し、収益や誇りを残すかを総合的に捉える考え方だ。地域に望ましい来訪者を「選ぶ」という発想も含む。
もう一つが「五方よし」だ。「住んでよし・訪れてよし・働いてよし」までは政府の基本計画でも触れられてきたが、ビジョンはここに「事業・投資してよし」「自然・文化によし」の2つを足した。事業者や投資家が持続的な収益を得られる構造と、観光収益を環境保全・文化継承へ再投資する仕組みを、産業の設計思想として組み込んだ点が新しいといえる。
キャリア面では、観光を「現場専門性の深化」と「職能拡張型」の2軸で描き、AIやロボットに置き換わりにくい対人・体験の領域だと強調している。最終到達点を「価値観リーダー」と名づけ、若い世代に観光を選ばれるキャリアとして提示した。
あわせて読む 観光を担う人材の全体像と、財源・政策の動きは、それぞれこちらで詳しく解説している。
このビジョンで編集部が注目したいのは、中核概念の「価値密度」を、現場の賃金や処遇にどう結びつけていくかという点だ。ビジョン自身も、適正価格で得た収益を賃金や教育、地域へ再投資する循環を掲げている。
言葉の新しさよりも、この循環をどれだけ実装できるかが、観光が基幹産業へ近づけるかどうかの分かれ目になりそうだ。
心強いのは、このビジョンが人材確保という切実な必要から生まれている点だ。賃上げの動機が業界全体で共有されているからこそ、構想を前に進める力も働く。
あとは、この設計図を会員企業が自社の価格と給与にどう落とし込んでいくか。その積み重ねは、2040年を待たず足元の賃金にも表れてくるはずだ。
<出典>
- 日本観光振興協会「基幹産業としての観光が目指す姿を描く中長期的なビジョン」
- 厚生労働省「令和7年賃金構造基本統計調査の概況」
- 観光庁「観光立国推進基本計画(第5次・2026年3月27日閣議決定)」
- 国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口(令和5年推計)」
- 「Travel & Tourism Economic Impact Research」(World Travel & Tourism Council(WTTC))





